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2010年 08月 13日 ( 1 )

見えないものを大切にできれば

昨日は、墓参り。掃除を兼ねて、お参りしました。

台風一過のせいか、直射日光が、殊の外厳しい。

盆前には、なしか普段の3割も4割も高くなる献花。榊などは、軽く1.5倍になっていた。

 神聖な行為に使うのだから、高いの安いのと小さいことは言うまい。…と思うのだが、このショウバイ(商売ではない)擦れした吊り上げ価格は、やっぱあざとい、…と思う。

 買い手が、そう思うことを織り込み済みならではの価格だからである。


 墓地に着くと、???えらい墓石がきれいに見える。よく見ると、花が添えてあるではないか。

 今日は、私が掃除をして、後で本隊の女房たちがやってきてお参りをすることになっていたのだが、電話で聞くと、「予定を変更して、先に来た」というではないか。

 これでは、私の出番がない。こうなりゃ、とことんきれいに仕上げてやろうと、一から一所懸命に墓石を磨いた。大汗をかいて、全身ずぶ濡れになった。


 年に3回だけだが、墓掃除を競い合うのも、日本人らしい姿ではないか。

 目には見えないご先祖をお迎えするために、短い間だが、丁寧に心を砕く。

 日本人の接遇の美しさは、普段の生活の中から作られている。相手の中に、自分と同様に「神」を見ることができるから、寛容さと礼儀正しさが両立するのだろう。

 今の日本、その当たり前のことを見失っている人間が、多過ぎるというより、次から次へと生まれているようである。



 以下の文章は、4年前に『致知』に掲載されたものです。
 明後日の15日のためにも、是非読んでください。


悲しみの底に光るもの


第七十二振武隊員の千田孝正伍長のことは、
お芝居でも書いて随分感動を呼びました。
 
第七十二振武隊というのは、
昭和20年5月27日に、万世飛行場から出撃した部隊なんですが、
自分たちから“特攻ほがらか部隊”
と名づけたくらいに陽気で愉快な連中の集まりでした。

出撃前に1週間ほど滞在していた横田村(現・東背振村)では、
夜になると地元の人々が慰問に訪れていたのですが、
隊員たちの元気な余興に、
逆に村の人々が元気づけられるほどだったそうです。

中でも人気者の千田伍長が、
ひょうきんな身振り手振りで踊る特攻唄は、
村の人々を爆笑させました。

ところが、出撃前日の夕方、
竹林の中であの陽気な千田伍長が、


「お母さん、お母さん」


と泣きながら日本刀を振り回していたのを、
通りかかった女子青年団員の
松元ヒミ子さんが見ているんですね。

そういう話になると、もう、
涙が溢れてきて、私などは何もしゃべれなくなる……。

なかなかいまの人には
理解していただけないとは思いますが、
いかに私たちの青春というのが
凄まじいものであったかということです。

松元ヒミ子さんはおっしゃっています。


「日本を救うため、祖国のために、
 いま本気で戦っているのは
 大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。

 体当り精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、
 あのころ、私たち特攻係りの女子団員は
 みな心の中でそう思うておりました。

 ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。
 特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、
 私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。

 38年(談話当時)たったいまも、
 その時の土ほこりのように心の裡にこびりついているのは、
 朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、
 出撃の前の日の夕がた


 『お母さん、お母さん』


 と薄ぐらい竹林のなかで、
 泣きながら日本刀を振りまわしていた姿です。
 ――立派でした。あンひとたちは……」  


ただ私は、決して戦争を肯定したり、
特攻を美化したりするつもりはありません。

特攻は戦術ではなく、指揮官の無能、堕落を示す
“統率の外道”です。
私は、その特攻に倒れた若者たちが見せてくれた、
人間の尊厳、生きる誇りを語り伝えていきたいのです。
 
自分の命を白熱化させ、
完全燃焼させて飛び立っていった特攻の若者たちは、
生きていた歳月はわずかでも、その人生には
いまのような生ぬるい価値観を
拒絶したような厳しさがありました。

その厳しさの中で自分の人生、
命の尊厳を見事に結晶させていったのです。

日本人としての誇りを持って飛んでいって
ついに還ることのなかった彼らのことを語り続けることで、
愛する日本の未来に新たな光がもたらされることを願っています。



…戦争による日本人兵士の死者の9割が、敗戦前の1年間で「作られた」。
by MUKUZAIKENKYU | 2010-08-13 11:12 | リッチな人生