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カテゴリ:学術 哲学( 4 )

カンナガラとカタカムナ、結構つながります

日本の住まいを良くする無垢材研究会 
 
                     木の住まい案内舎ゲインのゴトウです


 カタカムナって聞いたことありますか?

 上古代に存在した日本の一文化のことだそうです。カタカムナ文化については、いろんなところで勝手な解釈が横行していて、統一された見解が無いため、考古学でも、ほとんど無視されています。

 簡単にいえば、楢崎皐月という学者が戦後発見し、またその独特の文字を解読したことで、日本には上古代に優れた文化が存在したことが分かりました。

 一部の学者によれば、カタカナは、このカタカムナ文字をアレンジして作られたということです。表音も酷似していますよね。


 今日の本題は、実はカタカムナのことではありません。昨日お知らせした伊勢白山道のリーマンさんがいう「内在神」のことで類推できることがあったため、どうしてもお知らせしたくなったのです。

 「内在神」は、カンナガラといいます。実際はカムナガラですが、この言葉はカタカムナ表記でもあるのです。

 カタカムナから翻訳すれば、カムナガラは、「形は見えないけれど・・・」という意味です。

 カムナは「見えない力が無限に広がる世界の主」という意味だそうです。カムという言葉だけなら、主がない「見えない力が無限に広がる世界」になります。

 カムナガラ、すなわつ内在神は、「目には見えないけれど、実在する何者か」となるでしょう。その「何者か」は、間違いなくこの世界のヌシ、すなわち神を意味すると思います。だから「内在神」なのです。

 カタカムナの意味については、いろんな説があるようですが、深野一幸氏の著書に拠れば、「物質世界を支配する目に見えない無限のチカラの広がる世界のヌシであり、同時に基礎物理量としての存在」、すなわち「創造主」を表すコトバということです。


 リーマンさんは、古代神道に通じておられる方ですから、そのコトバから考えれば、上古代に存在したカタカムナ文化と無理なく符合してしまいます。

 伊勢白山道のブログでは、カタカムナのことは一切出ていないようですが、ここでこんな一致点を見出せると、カタカムナは古代神道に通じていることが、改めて分かります。

 カタカムナ文明?が、どこにあったのか証明するものはありませんが、先の楢崎皐月氏が平十字に出会ったのが芦屋にある金鳥山なので、おそらくここで栄えたのだろうといわれています。

 実際この近くには、何とも言い難い街があります。ミニ要塞都市のような六麓荘町。名だたる高級住宅街ですが、この発祥と、何かしら因縁があるように思えますね。

 このカタカムナ文明は、大和民族との戦いに敗れ、消滅したといわれていますが、一部は九州北部に逃げのびたという説があります。

 芦屋は元々はアシアと呼んだそうですが、同じ町名が北九州市の西隣にあります。今は航空自衛隊の基地がある街ですが、ここは鎌倉時代から一世を風靡した芦屋釜でも有名な場所です。・・・何か感じますね。

 それにアシアはアジア(Asia)につながります。ここまで考えるのは考えすぎでしょうか?


 結論として、・・・

 カムナガラは、古神道を通じて、その起源を伊勢神宮に置き、地球上の全ての人々の真我に宿りました。

 そしてカタカムナ(創造主)を現す文化も、その地域を超え、アシア(アジア)となり、森羅万象の根源として、「目には見えないけれど、・・・」姿を変えて現れているように見えます。

 はっきり言って、大航海時代や産業革命以後は、欧米が世界の中心になりましたが、行き着くところまで行くと、真の人間生活を実現するために、この日本が中心となる運命にあると結論付けざるを得ないようです。

 私は宗教に関心があるわけではありませんが、道を突き詰めて考えていくと、この日本では、伊勢神宮と古神道、そしてカタカムナは切り離しては考えられないように思えるのです。


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by MUKUZAIKENKYU | 2010-05-23 08:15 | 学術 哲学

必然的にしか思えない符合がある

木の案内舎ゲインのゴトウです。


 いやあ、忙しい忙しい(汗)

 今朝は出社した瞬間から、ゲインの製品の出荷指示、それに工事の見積、建具の図面作成、それから各方面へ連絡業務を、次々にこなしながら、気がつけば、すでに午後4時を回ってしまっています。

 こんなとき、体内には得体の知れないストレスが沸き立ってきて、・・・これが危ない。事務的な作業ばかりしていると、「おれはなんばしよっとかいな?こげな生産性の低い業務に追われて、一日費やさなイケンとかあ」と、自噴してきます。

 やはりこれも大切なお仕事、人と会って話すばかりではなく、しっかりと最後まで業務を完遂することは、目立たないけれど、一番肝心な点なのだ。否むしろ、目立たない仕事にこそ、もっと心を込めなくてはと言い聞かせています。

 てなわけで、今日も外回りは順延です。その代わり、建築家のご要望には100%対応できました。

 仕事も、日常も、日向と日蔭の微妙なバランスから、初めて実体が伴うのでしょう。



 幽妙な符合とは、私の人生に少なからず影響した思想と詩想があります。

 ひとつはアンドレ・ブルトンらのシュルレアリスム。もうひとつは宮沢賢治。

 それぞれがまったく別の流れから、私のところで見事に融合しました。

 アンドレ・ブルトンの誕生年が1896年、宮沢賢治も、同じく1896年です。最初のビックリでした。

 それからブルトンやアラゴンらが『シュルレアリスム宣言』を発表したときが1924年。宮沢賢治が没したときも1924年、・・・これが私にとっては、どうしてもただの偶然には思えないのです。

 この両者は、ともに何の接触もなく、この比較論も、私が知るかぎり追究されていません。でも宮沢賢治の詩には、間違いなくシュルレアルが存在しています。

 日本語の表現として、奇を衒うことなく、素直に、ひとつひとつの言葉が自立して、ひとつの世界を構築しています。

 フランスの合理主義に対する強烈なアンチテーゼを模索したシュルレアリスムは、ある意味政治的にならざるを得ないところもありましたが、宮沢賢治が信仰していた法華経と賢治だけが持つ西洋的な感覚は、危なっかしいほどのバランスの綻びから突出しています。


 宇宙の見えない力は、感じ取る意志がなければ、ただの偶然の繰り返しでしかないかもしれません。でも一旦その意志に触れると、人間がこの世に生まれ、そして生かされて在ることの意味が腑に落ちます。


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by MUKUZAIKENKYU | 2009-04-09 16:15 | 学術 哲学

忙しい!非常に忙しいリッチの世界

木の案内舎ゲインのゴトウです。


 今朝も、雨上がりの道を45分間ウォーキング。ホテルクラウンパレス八幡の周辺と一宮神社を一回りする格好で楽しんできました。

 事務所に着くや否や、注文と問合せが連発、そして知り合いのK氏より、何やら相談のような、中間報告のような電話が入り、それへの対応コメント。そうこうしている内に、午後からの訪問準備のための、新製品のチラシ印刷がまだ途中であることに気づき、慌てて開始!

 合間を縫って、黄砂で汚れた愛車を磨き上げ、何とか福岡市内の打合せの準備が完了しました。


 昨日のWBC決勝戦では、訪問先全てがテレビに釘付けで、仕事らしい仕事になりませんでした。でも、野球にそれほど強い関心があるわけではない私でも、この試合は、実にすごかった!

 勝利しての喜びというより、韓国との接戦の緊張感から解放されたという安堵感の方が、先に来ました。

 これほど目が離せない試合は、滅多にないでしょう。日本の選手たちの表情が、皆素晴らしかった。世界一という勝利者としての確信に満ちた笑顔は、日本人全体を勇気づけてくれました。


 とはいったものの、昨日の付けが今日に回ってきたかのような忙しさ。当ブログも、19時に着手。ほとんど誰も読まないかもしれませんが、とりあえずの習慣です。


 今月は、どういうわけかアイデアが再び爆発して、新製品のシリーズ化が完成しました。

 昨日も今日も、スケジュールは、リクエストをいただいた建築家の方々と、試作品の検討会で埋まっています。


 やはり本物とは、本物に値する木とは、産地の無垢材をそのまま紹介や販売するだけでは、絶対に実現しないと確信しました。

 各地の選別した個性ある優良材を、自身の知識と技術を総動員して、もうひとつ高い次元の無垢材として生産すること。それが新たな価値を創出することにつながり、本当の意味でホンモノに成る(=止揚される)のですね。

 もっといえば、人の想いが木を通して、ある形に成る。それはコンセプトであり、熱意であり、創意でもある。それらの思想が、試行しながら、少しずつ智慧として蓄積され、ある地点に達すると、木は木であって木ではなく、木でないと同時に木である世界を引き寄せる。

 それはそれを必要とする人々だけでなく、それと出会う人々のほとんどに、感性のインパクトを与えずにおかない。

 哲学は孤高でありながら、同時に普遍的なメッセージとして、いろんな形となって、人間社会に浸透していくものだと思いました。


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by MUKUZAIKENKYU | 2009-03-25 19:13 | 学術 哲学

暗号に気づくこと

今回は木に関する話はちょっとお休みです。

 私たちを取り巻く多くの出来事は、一見無関係であるかのように発生しています。でもちょっと氣になることもあります。氣になるときは氣にした方がいいという話です。

 シンクロニシティーという言葉があります。偶然のように見える必然とでもいいますか、偶然は相互に無関係で全くつながりのない出来事ですが、必然はすべてに論理的なつながりを見出すことができます。
 まるで見えない何かに導かれるように、すべてがひとつの芝居のように進行していて、氣が付くと、心の底まで腑に落ちることです。気がつくと、その舞台に立っている主人公は、ほかならぬ「私」だった。

 人生の曲がり角には、いつも誰かが笑顔で待ち受けている。

 そう得心する人もいれば、逆に「俺がこうなったのは、あいつのせいだ。あいつにさえ会わなければ、こんなことにはならなかった。」と、憂鬱な必然に、我が身を嘆く方もいます。

 私が経験上でいうと、後者の憂鬱な必然に嘆く方は、ほとんど間違いなく鈍感な人です。貧して鈍する、という言葉があります。追い詰められて、あがけばあがくほど事態がどんどん悪くなる。連続して間違った判断をすれば、間違いなくそうなります。

 人の人生は、その人にとっては一回しかありません。絶対に二回はありません。ここまでで自分の人生を見てしまうと、残念ながら一巻の終わりだと思います。

 もし人生に多くのことを感じて、それを直感的に読み解くことができれば、その人の人生は人の数十倍の経験を生きることができます。

 人生は想いと経験(体験ではありません)が紡ぐ一枚の布のようなものです。想いがなければ経験を生かすことができません。
 横糸と縦糸、それぞれの色で織り成す布には、同じものはありません。作り直すこともできません。すべてが時間とともに唯一のカタチとなって現れます。

 経験は想いを実証するだけでなく、想いに感動と感謝の念を、換言すれば確信をもたらします。確信は想いをより高く、同時に深くしてくれます。深い深い色付けをしてくれます。

 それが分かると、人生は長さで測るものではなく、ましてや今の自分の境遇を、お金の多い少ないや権力の有無を物差しにするおろかさに気付くことができます。

 幸運や不運は、確かにあります。すべての人が必ず経験することです。
 ですが、人生や事業という終わりのない想いの現われを、長さや量という尺度で測ることは、下手をすると人生の意味を単なる石ころにしてしまう危険を孕んでいます。

 今目の前で起きている出来事、そして連続して、目に見ることは出来ないけど、ある導きのように思える流れを感じ取るとき、人は人生に意味を見出します。ただひとつの生命、たった一回の人生は一介の人生ですが、周囲の多くの人の命の流れと合流します。本当の豊かさを身に滲みて感じることができる瞬間です。

 だから目の前の出来事を車窓の風景のように見過ごしていると、多くのチャンスや出会いを自ら捨ててしまうことになります。

 暗号とは、おまえだけに送ったメッセージなのだ、大切だが、そのセリ(連続)の中から、どれだけを感じ取り、おまえの生き方として腑に落とせるか、人生にミラクルな必然を見出すことができるか、いつもいつも試されているのだという示唆なのだと思います。

 「晴れてよし、曇ってもよし、富士の山」とは、中村天風さんのお言葉ですが、富士の山とまではいかなくても、表も裏も無い真実の姿として私の山を、多くの人との縁の中から築いていければ最高だと思います。

 そのためにも、常に自分だけでなく、人とのかかわりに関心を持ち、自分の想いはまさにひとつの奇跡を起す磁石なのだと、いつもいつも心という鏡を磨きつづけなければならないのです。

 暗号に気づくこと。それは人間だけに与えられた、そしてすべての人が共通して持っている、直観の中から磨かれる素晴らしい能力のひとつだと思います。
by MUKUZAIKENKYU | 2007-03-31 17:55 | 学術 哲学