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暗号に気づくこと

今回は木に関する話はちょっとお休みです。

 私たちを取り巻く多くの出来事は、一見無関係であるかのように発生しています。でもちょっと氣になることもあります。氣になるときは氣にした方がいいという話です。

 シンクロニシティーという言葉があります。偶然のように見える必然とでもいいますか、偶然は相互に無関係で全くつながりのない出来事ですが、必然はすべてに論理的なつながりを見出すことができます。
 まるで見えない何かに導かれるように、すべてがひとつの芝居のように進行していて、氣が付くと、心の底まで腑に落ちることです。気がつくと、その舞台に立っている主人公は、ほかならぬ「私」だった。

 人生の曲がり角には、いつも誰かが笑顔で待ち受けている。

 そう得心する人もいれば、逆に「俺がこうなったのは、あいつのせいだ。あいつにさえ会わなければ、こんなことにはならなかった。」と、憂鬱な必然に、我が身を嘆く方もいます。

 私が経験上でいうと、後者の憂鬱な必然に嘆く方は、ほとんど間違いなく鈍感な人です。貧して鈍する、という言葉があります。追い詰められて、あがけばあがくほど事態がどんどん悪くなる。連続して間違った判断をすれば、間違いなくそうなります。

 人の人生は、その人にとっては一回しかありません。絶対に二回はありません。ここまでで自分の人生を見てしまうと、残念ながら一巻の終わりだと思います。

 もし人生に多くのことを感じて、それを直感的に読み解くことができれば、その人の人生は人の数十倍の経験を生きることができます。

 人生は想いと経験(体験ではありません)が紡ぐ一枚の布のようなものです。想いがなければ経験を生かすことができません。
 横糸と縦糸、それぞれの色で織り成す布には、同じものはありません。作り直すこともできません。すべてが時間とともに唯一のカタチとなって現れます。

 経験は想いを実証するだけでなく、想いに感動と感謝の念を、換言すれば確信をもたらします。確信は想いをより高く、同時に深くしてくれます。深い深い色付けをしてくれます。

 それが分かると、人生は長さで測るものではなく、ましてや今の自分の境遇を、お金の多い少ないや権力の有無を物差しにするおろかさに気付くことができます。

 幸運や不運は、確かにあります。すべての人が必ず経験することです。
 ですが、人生や事業という終わりのない想いの現われを、長さや量という尺度で測ることは、下手をすると人生の意味を単なる石ころにしてしまう危険を孕んでいます。

 今目の前で起きている出来事、そして連続して、目に見ることは出来ないけど、ある導きのように思える流れを感じ取るとき、人は人生に意味を見出します。ただひとつの生命、たった一回の人生は一介の人生ですが、周囲の多くの人の命の流れと合流します。本当の豊かさを身に滲みて感じることができる瞬間です。

 だから目の前の出来事を車窓の風景のように見過ごしていると、多くのチャンスや出会いを自ら捨ててしまうことになります。

 暗号とは、おまえだけに送ったメッセージなのだ、大切だが、そのセリ(連続)の中から、どれだけを感じ取り、おまえの生き方として腑に落とせるか、人生にミラクルな必然を見出すことができるか、いつもいつも試されているのだという示唆なのだと思います。

 「晴れてよし、曇ってもよし、富士の山」とは、中村天風さんのお言葉ですが、富士の山とまではいかなくても、表も裏も無い真実の姿として私の山を、多くの人との縁の中から築いていければ最高だと思います。

 そのためにも、常に自分だけでなく、人とのかかわりに関心を持ち、自分の想いはまさにひとつの奇跡を起す磁石なのだと、いつもいつも心という鏡を磨きつづけなければならないのです。

 暗号に気づくこと。それは人間だけに与えられた、そしてすべての人が共通して持っている、直観の中から磨かれる素晴らしい能力のひとつだと思います。
by MUKUZAIKENKYU | 2007-03-31 17:55 | 学術 哲学