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国産材の利用率向上のために必要なことは?

 日本の有用林の材積は6億3百万立方メートルといわれています。

 そして1年間にほぼ3%ずつ増加しています。つまり1809万立方メートルの木が増え続けていることになります。

 日本国内で利用される木の量は、約1800万立方メートルですから、1年間の増加量と利用料は、ほぼ同量ということになります。

 もし国内の木の利用を、すべて国産材で賄うならば、国内の森林は、その都度人の手が入ることになり、相当量の国土が常に更新されて、二酸化炭素の吸収蓄積とともに持続可能な森林経営が成り立つことになるでしょう。

 でも現実は、その反対ばかりです。日本での年間利用量の1800万立方メートルのうち、国産材が占める割合は、その18%(最近は20%ギリギリに回復していますが)にしかなりません。

 残りの82%、ほぼ1480万立方メートルは、伐採されることもなく、そのまま維持されるのですが、ところがその維持費用が問題なのです。

 林業は伐採した木が市場に出され、売買が成立した利潤から費用を賄いますが、それは育林という出荷されるまでの経費に対して、その利回りが上回っていないと、経営が成り立ちません。

 ところが1961年の木材輸入自由化が開始されて以来、安価な輸入材にシェアを侵食され、シェアが20%を切った時点から、利回りが逆転してしまいました。つまり経済価値としての森林として考えると、それは所有しているだけで赤字が生まれるという貧乏神になってしまったわけです。

 経営的な観点からみれば、将来黒字に転換する見込みのない赤字部門は、早々に売却するか、別の用途に転換しなければならない存在です。でも森林は生き物であって、放置すると、ますます経済価値が損なわれてしまう代物です。

 人件費も出ないお荷物商品は、さっさと処分するに限りますが、森林では伐採された後は改めて植林を行い、山の維持をしなければなりませんが、誰も赤字に追い銭を打つことなどするはずがありません。

 有用林の80%は、人工林で、そのほとんどが杉なら杉だけといった単一林のため、皆伐(その土地一帯の杉を一度にすべて伐採してしまうこと)すると、まるで禿山になってしまうのです。

 日本の森林が常に更新されて、維持されるためには、国産材の利用率を上げる以外に方法はありません。換言するならば、食物の自給率があるように、木材の自給率を大幅に改善するしかないということです。

 自給率=利用率を、1960年代(70~80%)の水準に戻すことができれば、利回りは完璧に復活して、山にお金が還流されて、山村にも人手が戻ってくるようになります。

 でも国産材振興には、もうひとつの課題があります。それはユーザーの要求に応え、品質や供給のキャパシティーを向上させることです。3流品や格外品を掴まされては堪ったものではありません。

 その土地にあるからという安直な理由で使用するというのは、生産者側の欲望であって、ユーザーの利益を真から考えているとはいえません。

 産地が本気で地元の木を利用して欲しいなら、単なる流行や行政依存体質から脱出して、全国どこにでも通用するぐらいの品質と供給能力を持って、初めていえることだと思います。

 地産地消はいいとしても、美味しくなければ買う者はいません。木にしても同じです。それに木のない地域で、地元の木を使いましょうというのは、もっと無理があります。そういった頓珍漢な宣伝は、滑稽なだけで、裏の魂胆が透けて見えてくるというものです。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-29 11:46 | 木の家 国産材 無垢材

木の家に適応する材料とは

 大手ビルダーも地域ビルダーも含めて、一般的に、「木造住宅」と称する建物に使用される建材や設備は、いわゆる問屋卸の商流に乗るものばかりです。

 だからチラシやウェブで、いかにもオリジナルのように宣伝していても、実際には50歩100歩、やっていることは皆ほとんど変り映えがしないのが現実です。
 住宅展示場やビルダーの配布しているパンフをじっくり見てみると、すぐに分かります。

 既成秩序と既製品ばかりで造られた家に、本物の魅力はありません。

 最近では工法による「差別化」として、盛んに「外断熱」を謳っている住宅会社があります。まるで外断熱をしなければ、人間でないかのように、日本人の「孤立を恐れる」心理を煽っています。その工法はその住宅会社独自のものではありません。

 このような宣伝は、反対側から見ると、その会社は他に独自性らしきものがないために、一般的なものをいかにも独自性であるかのように装っているだけということが簡単に分かります。

 外断熱は省エネには貢献しますが、人間の生身の生活と健康には疑わしいかぎりです。というか、外断熱工法を採用するならば、採光と湿気対策、部屋や窓の配置は通風を考慮したものでなくてはなりません。

 大手・地域ビルダーは、果たしてそこまで考えて宣伝しているでしょうか?私が知る限り、建築家によるものでない場合は、皆無でした。

 木の家の最大の特性は、構造体であり、同時に床や壁材でもある無垢の木に、仕事をさせることです。その仕事とは、人間の健康な生活を醸し出すことです。

 木の特性は、室内の湿度を一定に保つ調湿性能だけではありません。その肌触り、木目の揺らぎ効果、香り等々、人間が自然そのものと一緒にいるだけで心身が癒される理由が、そこにあります。

 木の家は、単に無垢の木を使うだけでなく、それに適応する他の材料を限定します。

 いわゆる木造住宅では、壁は大壁にして、石膏ボードで、木の柱を覆い隠してしまい、その上に石油製品の塩ビクロスを接着剤で貼り付けます。
 この10年間で、VOCを吸着する素材がたくさん出回るようになりましたが、一見便利なようですが、実はこういった素材は、ある程度吸着すると飽和状態になって、それ以上吸着しなくなります。木にも、その性能がありますが、やはり同様の現象が起きています。

 本当に健康的な家を造るならば、まずVOC吸着素材を使うのではなくて、VOCを発生させない発想が前提になくてはならないと思います。でなければ、住まい手は、いつもこういった新手の製品を買わされるばかりで、本質的な問題はそのまま放置され、住宅コストは上がるばかりになるのです。

 本当に良い木の家を望むならば、しっかりした構想の元で設計されることが必要不可欠です。設計料が20万とか30万とかですむような家は、最初から敬遠した方がいいでしょう。

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by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-27 15:50 | 木の家 国産材 無垢材

ロハス的商流・経営・営業とは? 2

 (前回から)
 
 ロハスも含めて、エコロジーや本物をコンセプトにする商流は、既存の商流に乗らない、乗せない独自の流れを構築しなければ、その意志を実現することはできない…

 ☆流通を制するものは市場を制する

 この言葉はまさに当を得た表現です。これを違う角度から見ると、自社の商品を、周囲の余計な競争に巻き込まれずに、確実に販売するためには、既存の、誰もが疑わない常識的な商流や物流を経ずに、独自の流通システムを築き上げ、やがて大きな力としなければならないということになると思います。

 その商品の汎用度が高いか、あるいは顧客から見た付加価値度が高いことが条件になりますが、市場規模や市場の地域差等を慎重に考慮すれば、自社の販売方法が自然に形になります。

 ここでのロハスや“本物”の商品や情報は、そのコンセプトに共鳴する形で浸透します。一般的な商品が、大量販売を目指すなら、問屋やデパートに落としこまれ、またニッチを目指すなら、特定の商店や口コミによって広がる仕組みを築かなくてはなりません。

 またコンセプトをそのまま商品として流通させ、また一般商品と紛らわさないようにするための、最も適当な方法は、見ず知らずの人間に販売させない、自社の想いが直接届けられるものとして、一見ネット販売が最も適しているように見えます。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-24 17:00

ロハス的商流・経営・営業とは?

 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)という概念から、いろんな思いの元で、いろんな活動が展開されていますが、日本も米国と同じ資本主義社会ですので、商流の問題を無視することはできません。

 むしろ流通をしっかりと押さえなければ、ロハスは、単なる商売上の小道具に堕してしまいかねません。実際に単なる流行やおしゃれの一部としてしか捉えていない業者やユーザーが多いのも事実でしょう。

 情報を発信する側(商品を供給する側)そのものの無知に由来する弊害が圧倒的に多いし、最も責任が重大といえると思います。とはいったものの、ロハスという概念が、多くの人々の現実の生活に浸透するには、地道な活動だけでなく、マスメディアの力は欠かせません。

 地道な活動は、ある意味一地域内でのコンセンサスに限定されるといっていいと思いますが、解放区を作って自給自足生活をするわけではありませんので、やはり一地域に収まることなく、地域間交流か、あるいは情報や商品を供給する立場から、ボーダーレスで呼びかけなくては、自立的な生活を実現することは困難だと思います。

 ラジカルにいいますと、ロハスとはひとつの想いの形です。だからその形を想いで充満させたままの状態で、供給と需要が構築されなければ、意味を成さないということです。

 “地産地消”という一流通形式は、たしかに有効だと思いますが、これは農産物に限られた世界です。また“地産地消”の産物としての商品は、すべてネームタッグが添付され、遡及認証が可能でなければ、無意味であることはいうまでもありません。これはロハスの最低限の認識の一部分でしかありません。

 そこで現代の圧倒的多数の生活様式から考えると、インターネットによる情報発信と情報検索、そしてネット売買は、ユーザーの選択の自由度を限りなく可能にしました。自分が望むものを入手するのは自己責任です。詐欺に引っかかるのも自己責任です。

 でもそういったリスクを考慮しても、さらに多くのメリットを得られるのが、インターネットの効用だといえると思います。

 その視点から考えることを避けてはならないと思います。ロハスの実践や運動は、情報の共有から始まりますが、物の交換も、それを通して初めて確実になると思います。

 ロハスという言葉は、ある意味ロハスという“ブランド”として例えると、問題はより容易に見えてくると思います。ただしそのブランドには、そのブランドを実践している人しか、その流通に関わってはならないという、ある意味極めて排他的な不文律があることを忘れてはならないのです。

 地産地消にしても、そこで出荷される農産物がまずくて、生産管理がまともにできていなければ、その土地で消費されることは絶対にありえませんし、あってはならないと思います。

 また流通のあり方として、たとえば青森県で地元のふぐを食べましょうといって、誰が購入するでしょうか? 鹿児島県で採れたりんごを食べましょうといって、青森県のりんごが流通しなくなるでしょうか?

 よくマーケティングの極論として、北極でアイスクリームを売り、砂漠でサウナを売るという言葉がありますが、これは究極の“地産地消”といえるでしょう。

 ロハス的な商流とは、一般的な既存の商流に「ロハス」という言葉を乗せて、商品を動かすことではありません。でも実際にはこういった安直で無知な方法が当たり前のように通用しているのです。

ロハスや本物というひとつの想いは、その想いがユーザーの手に届くまでに、何ひとつ引かれることなく、また足されることもなく、多くの共感の輪を広げながら実現するものでなくてはならないと思います。

 それゆえロハスも含めて、エコロジーや本物をコンセプトにする商流は、既存の商流に乗らない、乗せない独自の流れを構築しなければ、その意志を実現することはできないと断言できると思います。
(つづく)

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by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-23 11:22

ロハスとしての木の選び方

 今回はロハス的な観点から、木について考えてみます。

 最近の傾向では、ロハスという言葉をもてあそぶだけで、実際にはまったく理解できていないばかりか、単なるキャッチコピーのように宣伝している建築業者が、あまりに多いようです。

 ロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)は、直訳すれば、健康と持続可能社会を築き上げる諸々の生活様式となります。

 ここではロハスについて言及するつもりはありません。ただ日本の建築業界では、ロハスについてあまりに無知な業者が多いため、ここでロハスという観点から、建築や木をしっかりと確認してみたいと思います。

 米国から始まったロハスは、ある意味日本の伝統的な生活様式に類似しているようです。当初ロハスについて、いろんな情報が流入していましたが、内容を聞くにつれ、それって別に目新しくもなく、かえって陳腐な印象を受けたことを思い出します。

 彼らの提唱している食生活は、日本では昔から存在しているものとほとんど変わりません。日本では「身土不二」や「一物全体」という言葉で、昔から当然のように受け入れられている概念です。

 また「地産地消」も、そのひとつですが、これらの言葉は、人間の健康と食物との関わり方について述べられた概念です。

 ところがこの5年ぐらい前から、「ロハス」スタイル?としての建築を唱えるビルダーが、全国のあちこちに生まれました。

 そこで調べてみると、そのほとんどは新しい生活様式というところまではいいのですが、内容はあまりに貧しいものばかりでした。

 シックハウス対策としての家と30歳代の新しい購買層向けに、ちょっとセンスがいい、ちょっと快適等々、単に環境対策を謳った建材メーカーや設備メーカーの商品を取り揃えるだけで善しとしているところばかりでした。

 10年ほど前から『近くの山の木で家を建てる』運動が継続されています。この運動主体は、実に想いの高い方々がリーダーシップを発揮しておられます。
 連想すると、一見「地産地消」という言葉に直結しますが、実は似ても似つかぬ概念だと思います。

 前者の場合は、安直な「地産地消」を促しているのではなく、自宅の近隣の自然との共生、具体的には里山との関係を重視しながら、川上から川下に至る商流の問題点を指摘して、木の安全性と循環型資源としての保全と利用を訴えているものです。

 木は近くの山から持ってくれば、遠方と比較して物流コストがあまりかからないという点で、推進すべきことだと思います。でもその木の種類や品質とはまったく関係ありません。

 また住まい手の要望する内容に応えられるものでなくてはなりません。それは見た目から色合、強度、耐久性、香り、乾燥度、予算等々、様々な要求に応えることができて、初めて商品と呼べるものになるからです。

 賢い消費者ならば、単に近くだからという理由で購入するようなことはまずしません。

 ロハスを考える住まい手では、近いことに越したことはないが、それ以上に環境対策と健康的な素材を選択します。使用するものはすべて地球に還るものでなくてはなりません。

 その住まい手に、彼らが望むとおりの木材が届けばいいのですが、以前にも説明したように、建築業界は多くのブラックボックスが存在しており、入り口が一緒でも、出口から出てくるものは似ても似つかぬものが供給されることが頻発しているのです。

 それゆえ既存の建築業界の商流に従うのではなく、新たな見地から、ロハス商流と呼べる、産地から住まい手までの流通を構築することが、何よりも大切なことになるのです。
(つづく)

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by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-17 07:00 | 木の家 国産材 無垢材

本当に良い木の家を造るためのヒケツとは その2

 前回では、木材製品の商流について、簡単に説明しました。其々の業者のあり方が透けて見えてきたと思います。

 国産材と輸入材の商流では、介在する業者数が、後者の方が間違いなく多く、当然輸入材の方が国産材より高くなるのが当たり前です。

 でも現実は輸入材の方が安く市場に流通しています。
 その理由は、1964年に行われた木材の輸入自由化によって関税が掛からなくなったことが挙げられます。でもそれ以上の重要な理由があるのです。

 そのひとつは、国産材の主な樹種である杉と桧は、80%が人工林であることです。植林と育成養生費用、そして国内での中間業者の多さが、値段を大きく押し上げていることは否めない事実だと思います。海外では、今でこそ人工林が増加していますが、この10年前まではほとんどが天然林の材木だったのです。

 天然林ですから、当然製品化するまでのコストはゼロに等しい。

 もうひとつは、材木の伐採から市場に出荷するまでのコストが、国内のそれと比べると、実に安いのです。それは日本では民間所有林が細かく、そのための権利関係の複雑さから、大規模な林業経営が成り立たないために、流通コストが高くなってしまうためです。

 そしてその結果、大規模な林業経営に相応しい最新機械や設備の更新が、海外に比べて大幅に立ち遅れてしまったことも挙げられると思います。

 また輸入材の主な木は、高地などの比較的フラットな地形から収穫されているのに対して、日本ではほとんどが急峻な法面(傾斜地)から伐採するために、伐採木の引出から林道整備が未熟であったため、コストが上がらざるを得なかったためでもあります。

 日本の林業行政では、インフラの整備にはあまり関心がなく、材木の投資価値ばかりを追ったために、外材の輸入自由化が始まると、材木本来の価値とは関係なく、国内の林業の没落を必然的に招いてしまったといわざるを得ません。

 日本の木は本当は海外の輸入材より、はるかに耐朽性、耐候性に優れています。にも拘らず、こういった経済原理と行政の近視眼的な措置によって、国内市場から駆逐されようとしています。

 最近は、中国の五輪や万博需要によって、世界の木材流通が中国に集約されたこともあって、急激な価格上昇を招きました。また原油高騰の煽りを受けて、輸送コストが大幅にアップして、さらに高値安定傾向にあります。

 もうひとつは、輸入材の大部分を占める欧米材(北米材、北欧材)が、天然林から人工林への転換期に入ったこと。
 そして東南アジアのいわゆる南洋材は、日本から規格のゆるい中国に圧倒的に流れ込んでいて、インドネシアの大地震と大津波によるインフラの致命的な破壊から、いまだに立ち直っていないことなどの要因から、国産材と価格差がほとんどなくなっています。

 これまでは輸入材にはたしかに優良な製品もたくさん出回っていましたが、この5年前後からは、いよいよ僅少になってきました。

 地球温暖化を招いている海外の違法伐採や盗伐による森林破壊は、今もなお深刻に進行していますが、この傾向も、法律的な防衛措置や世界的な抑制が働いて、そろそろ限界に来ています。

 そのため今でこそ国産材は大きく見直され、重要度が激増していますが、これはあくまで海外情勢の変化によるもので、国内での経営努力によるものではありません。

 国内の材木業界は、この一時的な需要期に浮かれず、今のうちにじっくりと足元を固めなおし、国産材の本当の良さを伝え、優良材の安定供給を実現しなくては、海外の状況が再び落ち着くや否や、再び暗黒の世界に追いやられてしまうでしょう。


 次回では、国産材を信じて、真剣に努力して、さらにユニークな結果を出している企業をご紹介します。

 本当に良い木の家を造るというテーマではありますが、その良い木を確実に入手できることが絶対不可欠になります。そのためには一見遠回りのようなお話になっていますが、本物の木といえる製品と出会うためには、生産者たちの真剣な想いをぜひとも知っていただきたいのです。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-16 07:00 | 木の家 国産材 無垢材

本当に良い木の家を造るためのヒケツとは その1

 巷には、カッコのいいキャッチコピーで彩られたハウスメーカーやビルダーの宣伝が蔓延しています。

 朝刊の綴じ込み広告に入れられている戸建住宅のチラシをざっと並べてみると、どれもこれもやっていることは皆同じ。比べたら、特徴にもならない「自慢の」仕様を書き連ね、掲載している写真は、大手のそれを越えるものはほとんどありません。

 とりわけ木造戸建住宅の販売会社のやっていることは、はっきりいって没個性です。内容の主流を占めるものは、ただの「安売り」で、結局建物そのもので勝負をかけている会社はほとんどないのが現状のようです。

 でもこんな「木造戸建住宅」を掴まされては、住まい手は堪ったものじゃありません。予算は安いに越したことはありませんが、構造体や内装材が、賃貸マンションに使用されているような典型的な廉価品で揃えられたのでは、わざわざお金を使う意味がありません。

 ユーザーである住まい手の皆さんは、ご自分の家を手に入れるためには、もっと適切な知識を身につけなければならないでしょう。

 一般的な商流では、木造住宅に使用される木のほとんどは、木材市場あるいは材木店から供給されます。

 それは産地→原木市場→製材所→木材製品市場(あるいは問屋)→材木店→ビルダー(工務店)→住宅販売会社→住まい手(施主、エンドユーザー)の流れになります。エンドユーザ様に手に届くまでに、何と最低でも6つの中間業者が介在するのです。

 一部の材木商品はネットで購買できますが、それでも4つあるいは5つの中間業者が介在します。輸入品に至っては、海外から日本の港に入るまでに、別に5つの業者が介在しています。

 製材所までは、その産地の木が取り扱われるのですが、消費地の製品市場には、そういった産地の木が集荷されるために、製材所の名前までは分かっていても、特定の産地の木という個性はほとんど無視されてしまいます。

 現在物流の主流となっているプレカット工場では、受注した棟数分の量を製品市場や材木店に発注するため、木の産地や想いは完全に無視されてしまいます。彼らにとって最優先課題は、量を捌くことであって、産地の想いなどはまったく必要としないからです。

 材木店にはいろいろな業態がありますが、その内の90%の業者は、木材を中心にした住宅資材の運搬業者であって、材木の何たるか、適切なアドバイスができる業者は皆無といっていいほどなので、材木店でありながら、材木の主流からはずされているのが現状です。まったく情けないことです。

 そして彼らのやることは、いつも最終的に価格競争、つまり安売り合戦に血道を上げてしまいます。悲しいことです。

 でもこれには彼らが良かれと思って行ったことが、逆に自分たちの首を絞めてしまったことは否定できません。つまり彼らの選んだ商流と物流が彼らの個性や強みをスポイルしてしまったということです。

 上記の商流を見てください。材木店と産地を直接結ぶものがありません。その地域の材木店ほとんどは、各産地から集荷された製品市場から材料を仕入れます。

 100件の材木店があるとしたら、その内の90件は、近くの1軒あるいは2軒の製品市場から、同じ材木を仕入れるのです。すでにお分かりのように、その時点で、その地域の材木店には差別化と高付加価値を生む土台が喪失していることが分かります。その時点で、材木店には安値以外に競争力がないという、もっとも惨めな販売店に陥ってしまうのです。

 ここまでのお話は、ユーザーである住まい手の方には直接関係のないことですが、でもこういった知識を持つことは、キャッチコピーだけでお客様を釣ろうとしているビルダーに安易にだまされなくてすむようになると思います。

 次回では、その商流から独立した業者の選び方をお伝えします。その後から、具体的な材木に関する知恵をご紹介します。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-15 12:00 | 木の家 国産材 無垢材

コーヒータイム 経営と営業に関する覚書 その3

 『差別化と市場占有率(シェア)は比例しないが、セグメント(細分化)によって化ける』

 中小零細企業が成長企業として生き残るには、企業のコンセプトが不可欠であることを前回説明しました。

 ホントは中小零細企業でも、それなりに頑張れば、10数年間は成長できます。それはある意味、零細企業から小企業へと成長するまでの間ということでもあります。

 それまでの企業は、その実績の90%以上が、社長という経営者の力量に比例するからです。業種にもよりますが、10名未満の会社までは零細企業であり、50名までが小企業の範疇に入ると思います。

 業種にもよるといいましたが、それは大企業に成長しにくい業種もあるからです。むしろ家族労働に近いやり方の方が、うまくいく業種もあります。

 よくあるパターンですが、その会社がある程度成長した結果、その社長の直轄管理から管理職への権限委譲段階に来ているにも拘らず、社長自身の執着のために、それができないまま、会社を大きくしてしまうところがあります。

 その場合は、管理職に対応する社員は、社長の器の小ささを見抜き、心が離れて、やがてその会社を去ることになります。

 そしてそこの社長は「ほら、見ろ。やっぱり俺がいなければダメじゃないか。」と嘯くのです。…そりゃそうでしょう。社長自身が、会社の成長を望まないために、有用な社員から見捨てられたことに気づかないのだから、その会社は、社長の目が黒い間は、永遠にそれ以上大きくなれないのです。

 インターネットの普及によって、統計的な情報から逸脱した、新たな企業の在り方が生まれ始めています。それは企業間コラボレートによるネットワーク販売ともいえます。

 個人個人の高い力を結集することで、互いの長所を活かしあい、短所を補い合うというものです。それと同時に、互いの顧客の購買意識を確信まで高めていく方法です。
 インターネットや一地域内での企業間コラボレートでは、個人の能力がそのまま売りにつながるため、顧客にストレートにアピールできます。

 換言すれば、大手企業が数階層に分かれて意思決定する間に、当初の商品開発の真の意図が伝わらなくなって、売り手の傲慢さばかりが前面に出てしまうことがあります。

 または商流の複雑さ(煩雑度)によることもあります。メーカーからエンドユーザーに商品が届くまでに、中間業者が多数介在するような業種では、メーカーのコンセプトは、絶対といっていいほど、ユーザーに伝わることはありません。

 メーカーのコンセプトを知っている者は、そのメーカーから直接購入した者だけです。

 それは真実ではありますが、最近ではそれを安直な方法、つまり産直あるいは地産地消と呼称することで、自己満足に陥っている業者が多いのですが、それはある意味、メーカーや産地からの押し売りでしかありません。

 農産物なら理解できますが、そうでなければ売り手(紹介者、情報提供者、販売店、専門業者)は、自分の役割を放棄しているといえます。本当は農産物でも、スーパーに並ぶ前に、バイヤーからしっかりと選別されているのです。農家が持ち込んだものをそのまま陳列することは絶対にありません。

 しかし地産地消という販売キャンペーンは、差別化するだけの能力がない商品、換言すれば大きな市場に出すと、同じような商品で、より供給量が多く、価格も安い商品にミートされて、忽ち市場価値を失うような商品では、市場を限定することによって、シェアを高めることができ、また販売コストを抑えることもできて、一石二鳥の方法といえると思います。

 ただしこれはその市場を守る大義名分が保たれている間しか効力がありません。

 ある建築市場では、“近くの山の木で家を建てる”運動が行われていますが、中には供給能力がないにも拘らず参加して、実際の建築現場では、柱だけはその地域の製品だが、他の大多数の構造材は米松という輸入材を平気で利用しているところもあります。

 昨年の流行語にもなった“偽”ではありませんが、“欺”であることは間違いありません。

 この“近くの山の木で家を建てる”運動とは、ロハス的な視点から開始された高意識な環境センスを前提にしていますが、日本のほとんどの地域でのそれは、現地でいつの間にか、ユーザーを知らない産地と山を知らない工務店、そして木を知らない設計事務所が、同床異夢として、勝手な思惑で“金儲け”に奔走しているところがあります。

 この運動の原点は、エコロジーであり、エコノミーではありません。米国ではロハスと呼ばれていますが、ヨーロッパでは、それよりはるか前からバウビオロギーとして定着している運動です。

 このように市場を細分化すれば、競争力のない商品も、ある程度売ることはできますが、それが本物である価値を問われた途端に市場から消え去るしか能がない物も横行しているのが現実です。

 本来の市場の細分化による戦略的な販売は、次の手を打つことを前提に、今の市場に全力で資源を投入することです。

 本物の価値のある商品は、その土地に縛られることがありません。それだけ普遍的な価値があるからですが、もしそういった商品が紹介されてくると、その土地=市場だけでシェアを確保することばかり考えている“地産地消業者”は、瞬く間に市場から退場せざるを得なくなるでしょう。

 細分化された一地域の中でしか価値のないものは、それはシェアとは呼びません。閉鎖的な囲い込みといった方が的確でしょう。そんな流れの中には、まず本物は存在しません。

 細分化する意味はシェアに対する考え方の一つですので、販売する商品はどこにあっても通用するものでなくてはならないのです。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-13 07:00 | ビジネス 

コーヒータイム 経営と営業に関する覚書 その2

 『魚のいないところで釣りをしても、一匹も釣れるわけがない。まず魚のいるところで、釣り糸を垂れること』

 この言葉は、営業するターゲットの地域や客層について戒めたものです。

 お客様がいないところで、一所懸命営業をしても、望むお客様に出会えることはありません。実際にその通りです。でもこれには多くの人が陥る罠が仕掛けられています。

 この言葉を額面どおりに信じると、大手も中小企業も、こぞって市場規模の大きな都市部を目指して営業することになります。たしかに潜在的なお客様は多いでしょう。でもそれ以上に競争は熾烈を極めることになります。

 もし商材が同じものであれば、資金力と人材に勝る企業が必勝することは自明の理です。元々大手の物真似ばかりしている中小企業が、その物量戦に勝てるわけなどありません。

 この言葉の裏にある意味を正しく理解しなくては、このままでは中小企業には何をやっても勝ち目がないと認めてしまうことになります。

 “たしかに潜在顧客の多い地域”に来て、釣り糸を垂れたとします。でも同じような釣竿や餌なら、釣竿の本数と餌の量に比例して、釣果が決まってしまいます。

 そこがどんなに魚が多くても、まず自分がどんな魚を釣りたいのか、それが明確でないと、それに見合った釣竿や餌を準備することはできません。いい道具があれば、それに越したことはありません。後はただひたすら練習して、その道具を自由自在に使いこなすようになることです。

 それはつまり、まず第一に、自社が望む客層や顧客のイメージを鮮明にすること

 その次に、その未知の顧客が喜んで購入していただけるような商品を持っていること、あるいは開発すること。販売する商品がなければ、事業は成立しません。ただこの世に万人受けするような商品などひとつもないことを、予め認識しておかねばなりません。

 経営者や製品開発者がよく陥る錯覚ですが、どんなにいい商品でも、全人類、あるいは日本人のすべてに普遍的な価値を持たせることは不可能だし、そう考えてはならないということです。

 そして最後に最も重要なことがあります。
 それは、攻める地域や客層は決まった。何を売りたいのかも決まった。どう売れば効果的な販売ができるかも、十分に訓練した。普通そこまでいけば、もはや鬼に金棒とばかり、市場に飛び込んでいくのが一般的ですが、そこではやはり結果には著しい格差が発生します。なぜでしょうか?

 肝心の質問が欠落しているからです。だから答えを出せないまま出撃するため、燃料が続かない、敵機に簡単に撃ち落とされるという事態が頻発してしまう。

 その質問とは、なぜこの商品を売りたいのか?そしてその商品を売ることを通じて、何を得たいのか?この質問に対して、明確な答えを持っていないと、ちょっとした障害に簡単にめげてしまうことになります。

 それはその商品を販売する会社なり営業マンが、その商品とその商品を購入してくれる顧客に相応しい条件(会社、人格)を持っているかということです。

 この質問に対して明確な答えを持っていなくては、なかんずく目指す世界が大きく、そして高いなら、それに応じて、更に厳粛に持っていなくてはならないはずです。
 
 さきの魚釣りの話に戻すなら、魚影の濃い釣り場を発見できた。どんな魚を釣りたいか明確なので、その魚が欲しがる餌と、その肴に合わせた釣竿とテグスも準備できた。
 最後に、誰がその釣竿を操るのか、誰がその魚を釣り上げるのか。

 企業でいえば、その誰かが、10年先ではなく、20年先にも30年先にもいなくては、企業は存続できません。逆に10年目でやっとブレイクして、会社がバンバン成長していても、そのときは立派な社長や営業マンであっても、驕りや高慢さが生じた瞬間から、奈落の底に向かって転がり始めるのです。

 私は、望む魚を釣るのに相応しい人(会社)なのか?相応しいと呼ばれる努力を怠らず実践しているか?昨日より今日の方が素晴らしいと、今日より明日の方が更に向上していると断言できるだけの修錬を実践できているか?

 釣る魚は生き物です。釣る側も生き物です。成長するときもあれば、老いることもある。勢いがあるときもあれば、油断が高じるときもある。欲ばかりに目を眩ませると、魚は敏感に逃げてしまい、道具の扱いも雑になってしまいます。ひどくなると、魚が釣れないのは、餌のせいだ、道具のせいだとわめき散らすものもいます。釣れてるときは、それこそこれ見よがしに自慢していたもののせいにするのです。

 いつでもどこでも謙虚な自己修錬を伴っていなければ本物ではありません。物を販売するということ、お客様に購入していただくということは、だますことでも、目の前で威張ることでもありません。

 好奇心と向上心のもとに努力し続けること、情操を高めるとこ、陰徳を積むこと、そうする過程で、シンクロニシティーやセレンディピティーが目的地へと導いてくれるようになります。

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by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-12 07:00 | ビジネス 

コーヒータイム 経営と営業に関する覚書

 『中小企業と屏風は、拡げると倒れる』

 けだし名言です。
 これは安易な多角経営を戒めた言葉です。十分な資金力や人材のない会社にあっては、経営資源が分散するような方向に舵を切ると、早晩資金が底を着くだけでなく、大切な人材に不得手な事を強いることになって、人のパワーを去勢してしまい、かえって業績が悪くなるということです。

 でも中小企業に限らず、どんな会社でも、その社会的使命が大きければ大きいほど、購買市場の規模に応じて、今以上の上を目指さなくてはならない運命にあります。

 大きくなれる会社は、会社の資金力やマンパワーより、もっと肝心な条件があります。それはコンセプトの高さです。

 会社は社長の器に従う。これもその通りです。社長の価値観や経営判断によって、会社の将来は決まります。だからコンセプト次第では、たとえ当初はたった一人で開業して、資金も人脈もない状態から出発しても、どこまでも成長していく運命にあると言えます。

 ある人が言っていましたが、商品の差別化は、いつも真似をされる運命にあるので、そこで成功したからといって安心していたら、資金力や人材に勝る企業から、瞬く間に喰われてしまう。真の差別化は、そして最も競争力のある商品とは、企業のコンセプトであり、それこそが究極の差別化を実現する、と。

 でも折角のチャンスを逃すことが多いのも、中小企業の悲哀です。多角化の悪魔の誘いではなく、事業成長のチャンスが到来しているにも拘らず、資金がないとか、それをやる余裕がないとかの理由をつけてしまう経営者が多いのです。

 そのチャンスを掴まなかったばかりに、10年経っても20年経っても、最初の1日目と変らないことしかできない会社になって、他の同業者の肥やしにされてしまうのです。

 経営では緩急メリハリで、会社に常に刺激を持たせなくては、人材は腐ってしまいます。次のステージに向かうときには、今までの当たり前になった思考や行動習慣を一掃しなければならないことが多いのです。その勇気をもって行動できた者だけしか、栄誉を手にすることができないようになっています。


 『目標を明確に設定できたら、一旦目標のことを忘れて、行動に集中すること』

 この言葉は、目標設定症候群とも言うべき、目標はやたらに作るが、そのどれもが結局未達成に終始する人や企業を戒めています。

 どんなことでも、どんなに立派な考えを持っていても、ただ思っているだけでは、何ひとつとして風を起すことはできません。

 よくドライブに例えられますが、1000キロメートル先の都市に行きたいと計画するとき、人はそこに至る道程を地図や案内を見て、途中のガソリンスタンドやコンビニを、ある程度把握して出発します。

 実際に出発して、車を運転し始めますが、運転中に、さっき調べた資料や地図を見ながら運転することはないはずです。夜間走るなら、ヘッドライトは50メートル先までしか照らしません。ドライバーは、その50メートルに意識を集中して、障害物を避け、信号が赤なら止まり、カーブがあるならスピードを調節します。

 そのときは1000キロ先のことは考えていません。目的地に向かって走っていることは分かっているので、目の前のことに集中して、無事に通過できれば、目的地に辿り着くことができます。

 10キロ先の目的地とは異なり、1000キロ先なら、それなりに周到な準備が必要です。準備には時間も掛かりますが、万端であれば自信を持って出発することもできます。
 1000キロ先の目的地に辿り着くには、まず目の前の10キロ先を通過できなければ、残りの990キロを走ることができません。

 そして一旦走り出したら、目の前のことに細心のの注意を払いながら、ひとつひとつクリアすることだけが最優先の課題になります。1000キロ先のことなど考えても意味がないからです。

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by MUKUZAIKENKYU | 2008-03-11 07:00 | ビジネス