<   2008年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

小林多喜二の『蟹工船』が売れ始めた背景

 小林多喜二は、太平洋戦争に日本が突入する直前、言論統制のために発動された「治安維持法」のもとに、公安から逮捕され拷問された挙句獄死した作家です。

 その彼のデヴュー作が『蟹工船』でした。結局この小説が公安の目に触れ、彼は逮捕されてしまったのですが、その当時の時代背景は、世界大恐慌の末、日本国内では資源確保のために海外に積極的に進出していました。

 現在の日本とはかなり背景も異なるのですが、唯一一致する点は、政官業と労働者との関係が大きく乖離しているところでしょう。

 また全く異なる点は、その当時では労働運動が急速に進展して組織化が進んでいたのに対して、現在ではユニオンという名の弱小組織が点在しているだけで、連合などの労働組織が、こういった現状に全く対応できていない点だといえるでしょう。

 小林多喜二の時代では、未組織でアナーキーな労働運動が全国で頻発してはいましたが、労働運動も萌芽期で、共産党とはいっても、欧米のそれほど確立されたものではありませんでした。でもそれだけ純粋であったともいえます。

 いま彼の著作が、20台の世代を中心に多く読まれ始めたのは、30台がいわゆるバブル後のロストジェネレーションであるのに対して、20台の若者の多くは、その惨状を社会に入る目に客観的に判断できる猶予があるからかもしれません。

 蟹工船の主題は、劣悪な労働環境と閉塞感と怒りの自然発生的な表出、それはある意味失われかけたそれぞれの人間性を取り戻そうと叫びを揚げた筋書きですが、その背景にある船の所有者とその所有者側に立つ「監督」、その支配下に喘ぎ虫けら扱いされる船員たちの、露骨な対立構図が際立っています。

 それは搾取と収奪、持つ者と持たざる者との決定的な境遇差が厳然としてあります。その関係を20台の若者たちが敏感に感じ取り、感性的には世直しの萌芽を自分たちの世代が担わなければならないと意識し始めたともいえるでしょう。

 かつて60年代から70年代初めまでは、強力な労働運動と学生運動が先鋭化した時代でした。しかしそれは高度成長の途上での世相でした。

 今の時代は、バブルの狂乱白昼夢が終わり、ほとんどの企業が自信を失い、コンセプトを見失うだけでなく、政治までが「派遣法」という斡旋師を法律的に保護したために、労働力が企業と意識的にシナジー効果を求めることが不可能になるばかりか、派遣会社という労働力の中間搾取を生業にする商売が跋扈することによって、国力の元になる日本人の労働力を単なるモノにまで貶めてしまった。

 バブル以降、社会構造化しつつある労働力の中間搾取業界を早急に駆逐しなければ、日本人が誇りを以て仕事に励むことができなくなるでしょう。

 これは経済政策(プラザ合意からバブル容認)の過ちから始まり、その過ちを行政(派遣法、貸し渋り促進の金融監督庁設置)によって更に糊塗したために発生した結果だと思います。

 高度成長期に成熟したかつての労働運動と団体では、この現状には対応できないでしょう。学生運動にしても、イデオロギー的な自己陶酔と自己完結では、より多くの世代を巻き込むことは不可能です。

 だから労働運動の原点である人間疎外と人間としての尊厳を取り戻すために、雇用する側である企業の質低下が、蟹工船の時代とオーバーラップするのだと思います。
 労働運動の質は、そのときの企業の質に比例します。

 一部の優良な企業は別として、いやその企業群も「派遣法」におんぶに抱っこの下請け企業を利用して、直接間接の搾取を容認しているようでは、ユニバーサル以前の品も格もない四流企業が、日本に溢れてしまうでしょう。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-07-27 10:35 | コラム 政治・経済・社会

日本で農林漁業者が報われない理由

 昨今の食品に関する、生産者による産地偽装や期限書換、そして漁業者の休漁というストライキなどの一連の事件は、これまでの日本の商流のあり方そのものを問われていると思います。

 これらの直接的な原因は、中国の農薬漬け食品の氾濫や産地付け替え、石油などの燃料の暴騰です。

 健康被害を惹き起こすことと農林漁業者の経営圧迫です。

 しかしこれらのもっともらしい原因は、このような時代では、その先何度でも起こりうることで、もっと根本的な解決をしないかぎり、第二第三の中国有害食品、産地偽装は必ず頻発するでしょう。

 ではこれらの根本的な原因とは何でしょうか?

 最先端での生産者のほとんどは、零細企業ばかりで家族労働をしている業者は、農業漁業者では、圧倒的多数を占めています。

 そのため自社の商品を独自に販売するネットワークを持っていないことが多い。だから一箇所に集約して、沢山の顧客に代理的に販売する業者に委託せざるを得ない傾向にあります。

 戦後の混乱期では、公共的な組合組織が沢山生まれ、そこで商品を販売する商形態が定着しました。そのときは必要性から生まれ、それなりの存在意義があったと思います。

 でも今はそういった事情はもはやひとかけらも残っていません。なのに、そういった商形態だけが存続しています。そのために商流そのものが大きく歪み、矛盾を孕みながら、現在望まれている商形態から大きく立ち遅れてしまっているのです。

 農産物を作る者、林産物を作る者、海から海産物を採って来る者等々、直接従事者が最も多くのコストとリスクを負っているのが現実で、消費者の元に届くまでに、多くの中間業者が介在することで、元値から数倍に膨れ上がっています。

 先端の直接従事者には、コストとリスクに見合った報酬が最も多く還元され、中間業者はローリスクローリターンに甘んじなければ釣り合いが取れません。ところが現実は正反対なのです。中間業者が儲け、直接業者には還元されていないのです。

 要は、こういった直接生産や狩猟伐採に従事しているハイリスクを負う業者に、価格決定権を持たせなければならないということです。それを阻害しているのが、かつては役に立ったであろう半官半民の組合組織や行政局になっているのです。

 今のようにインターネットが普及し、産地から直接情報を発信できるインフラが形成されている現状にあって、いまだに旧態依然とした商流に依存していては、いずれ未来から排除されてしまうでしょう。

 直接業者の皆さんも、良心的なインターネット販売に活路を見出すことができれば、本物の商売が実現し、その努力に見合った報酬を受け取ることができるようになると思います。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-07-23 09:06 | コラム 政治・経済・社会

宮城県のある医療法人での不祥事とパニック症候群

 最近の不祥事に関するニュースで、宮城県のある医療法人の理事長に対する職員の退任要求事件がありました。

 その理由は、セクハラや公金の私的流用でしたが、そこの職員が涙ながらに退任要求をしている姿を見て、また当の理事長の会見での言動を見て、これはもっと深い事情があることが透けて見えてきました。

 それはその理事長の普段の生活態度や抗鬱剤のリタリンの大量服用が疑われている事実から、これは理事長の精神崩壊過程での一連の不始末ということが分かります。

 ある看護師の言うように、理事長が理事長室に向かう間に、何度も転び、よだれを流し、言語失調をきたしていたとしたら、これはパニック症候群への対症療法としての抗鬱剤の服用が常習化した結果、精神に異常をきたしているということです。

 看護師や職員が、なぜ理事長の病状について、一言も言及しないのか不思議で仕方ありませんが、私の周囲にいる二三人のパニック症候群の患者と、ほぼ同一の症状のようです。

 おそらく自主的な判断能力は、相当程度低下しているでしょう。もはや自力での回復は不可能でしょう。しかもリタリンのような常習性がある禁止薬物を、普段から大量に服用しているとなると、薬効が切れる頃になると、鬱症状だけでなく、禁断症状も発生するために、ある意味精神の錯乱状態に陥ってしまいます。

 パニック症候群のまずい点は、本人が重度の被害妄想でありながら、その妄想に気がつかないところです。

 だから心配して周囲が忠告したり、助言する者は、彼にとって憎むべき敵にしか見えなくなります。

 今回は医療法人の理事長という立場上、周囲も忠告や医療措置ができず、結果的に専横を許し、そして弾劾せざるを得なかったのだと思います。これはあくまで正常な人間に対する態度ですが、理事長はおそらく自分が何をしているのか、全く理解できず、周囲にいじめられているとしか理解できていないでしょう。

 比較的社会的地位の高い人が、この病気にかかると、周囲から一層孤独を深めやすくなる傾向があります。だから自主的に治癒する機会を逸するのです。本人が元々どんなに素直な人間だったとしても、パニック症候群に陥ると、人間性は180度変節してしまいます。

 これは本人を苦しめ、周囲も苦しめてしまいます。しかもこれなら治るという薬がないため、心の交流療法以外に、有効な方法がありません。

 でも地位が高いと、そこに権威や権力が付帯するため、周囲を遠ざけてしまうことが多いのです。…厄介、ですね。
by MUKUZAIKENKYU | 2008-07-19 12:41 | シックハウス 化学物質過敏症

最近の流行語の軽薄さ:格差社会と偽装

 流行語とは、いつどうやって作られるのでしょうか?

 マスメディアで、繰り返し使用されていくうちに、その単語が一人歩きを始めて、まるでその世情をシンボリックに表現するモノになっているようです。

 マスコミも、大した検証もせずに、その傾向に追随して、言葉の正確な意味を忘れて、コミュニケーションの道具に使っています。

 しかしながらその言葉が、一連の軽薄な流れの中で利用されるにつれて、いつの間にか本来の意味を失い、言葉そのものがまるで使い捨ての道具のようにバラバラに解体されてしまう。

 日本人全体がしっかりした教養を持てとはいいませんが、報道などのマスコミは、最低限の修正と誘導は必要不可欠ではないでしょうか?それが啓発というものでしょう。

 まずは、“格差”という言葉。

 ライブドアの堀江氏やいわゆる成り上がり金持ちが、テレビや本などにも特集されるようになったのが、2004年前後。それより13年前に経済難民と化した、いわゆるロストジェネレーションの若者は、年を経るにつれて、より固定化されてしまいました。

 日本の企業が、バブル経済から反省したのは、単純に企業体力の確保のために正社員を極限まで削減することだけでした。

 本来の反省は、会社のあり方と経営者のあり方を問い直し、本当の経営者と経営を構築することです。ところがほとんどの企業が、反省もそこそこに、単に固定経費を削減することに血眼になってしまった。

 そこで働く社員(労働者)も、ある意味そういう企業並みにレベルの低い労働力しか持ち得ない群集でしかなかったともいえます。

 この二三年前に固定したかと思える“格差社会”…この意味は、社会構造に格差があるというのではなく、単に貧富差を表現しているにすぎません。

 私が見るかぎり、日本の社会で、格の差はほとんどありません。官庁でも、大企業でも、はたまた零細企業でも、格外の犯罪行為や破廉恥行為は頻発しています。

 格とは、人や企業の骨格を成す、一本筋が通ったポリシーや想いの中身の高低を表す言葉です。いわゆる社是社訓ではなく、企業に普遍化している制度でもあります。個人でいえば、それまでの生き様を収斂した価値観になるでしょう。

 そう考えてみると、今テレビや雑誌の紙面を飾り、取り沙汰されているほとんどの人や風俗、そして企業には、格の差などありません。

 お金は、それを生む者・持つ者・使う者によって生きたり死んだりするだけです。確かに世の中のすべての人々が、経済的に裕福な暮らしが出来るに越したことはありませんが、そう考えていても、お金で人を騙したり、殺したり、支配する行為は、現実に存在するし、これから先もなくなることもありません。

 企業や個人で、必死に努力して、血の汗を流した結果、そして多くの顧客から支持を得ることができて、多くのお金を収入として得て、豊かな暮らしを実現している人々もたくさんいます。

 またマスコミは人間の嫉妬心や覗き見趣味を煽って、お金を稼ぐのが生業であるため、そういった経緯には関心がなく、単に貧富差を誇張することが多く、ただそのままの表現では支障があると判断して、いわゆる“格差”なる言葉を適当に抽出したに過ぎないと思います。

 お金持ちが永遠にお金持ちであり続けることはほとんどありません。貧乏と呼ばれる人が、死ぬまで貧乏のままで終わることも稀です。

 そのどちらも、人間本来の力である進化と繁栄を心がけて、必死に努力することを怠らなければ、お金持ちはよりお金持ちとなり、貧乏人も必ずお金持ちに成り上がることができます。

 本当に格差があるとしたら、お金の多寡だけで、人や社会の価値を測ろうとする無知と、感謝と人との縁を大切にしながら、より多くの人々に役に立つ自分自身を持つ自信との差といえると思います。

 人は成長することが本来的な運命だと思います。衰退や挫折は、一時的な停滞にすぎません。そしてその成長を得るには、確信を持った、地道ではあっても、意欲的で継続的な行動以外にありません。

(つづく)

http://www.h3.dion.ne.jp/~yamaiti/

 
by MUKUZAIKENKYU | 2008-07-12 10:32 | コラム 政治・経済・社会

ラクガキする者の心根は

 落書は、報道されているように、今日では国際的になり、ラクガキと呼ぶことが相応しくなってきたようです。

 国内では、個人所有の建物や公共物はもとより、鍾乳洞や砂丘、竹林、石仏等の天然記念物や重要文化財(重文)に至るまで、実に幅広く汚されています。

 海外では、東南アジアの名所遺跡、ヨーロッパの遺跡や寺院まで、このラクガキは進出しています。

 ということは、この心無い者は、日本全国に散在していて、行く先々で、スプレーを片手にやりたい放題しているわけです。しかも一定の年齢範囲ではなく、老若男女問わず、どこにでもいるような人間が、「つい出来心」から「確信犯」的な軽蔑行為を展開しています。

 この行為を「公共心」の教育が足りないと、戦後の教育制度を問題視する方もいるようです。

 でもこういう反応は、一見自然に見えて、実は全く的外れです。

 彼らの行為は、私有財産に対する無頓着、つまりそれがどこの誰のものであっても、書きたいから書くという言い訳を持っています。ひどいのになると、これはゲイジュツだとまで言い放つばか者までいます。

 思想や意志というものは、彼らには存在しません。

 単に他者との距離感覚が欠如しているだけです。そして自尊心がなければ、当然他者への敬意を持つこともありませんから、何のためらいもなく、相手の領域へ土足で踏み込んでしまう。

 また自分が所属する世界へのプライドも持っていません。それは社会や会社、団体だけでなく、自分自身へのアイデンティティーの喪失ともいえるかも知れません。
 だから他者を侮蔑する行為がどういったことなのかも、まともに判断できないのでしょう。

 風邪は万病の元といいますが、ラクガキは万罪の元といえます。

 
by MUKUZAIKENKYU | 2008-07-05 14:15 | コラム 政治・経済・社会